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​大巖寺について

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470有余年の歴史

​沿革

 

大巌寺は、山号を龍澤山、院号を玄忠院と称します。

今から約四百七十年前、戦国時代末期の天文二十年(一五五一年・一説では天文二十二年)に道誉貞把上人(一五一五~一五七四)を開山(初代住職)として草創されました。

開基の際の大檀那(経済的な後援者)は、千葉氏六党の一つ、生実城主原胤栄公夫妻でした。薬も祈薦も効かない重い病にかかっていた原公夫人が、当地方を布教行脚していた道誉上人の説法と念仏によって快癒したことから、夫妻ともども上人に深く帰依し、永くこの地に留まってもらおうと寺領70貫(のちに100石)の土地を寄進されたことが、大巖寺の始まりです。

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​道誉上人について

道誉上人は大阪に生まれ、 十三歳で出家されました。 十七歳の頃には檀林飯沼弘経寺に入り、 勉学を続け、天文十五年(一五四六)三十二歳の時に布薩大戒を受けられました。上人は各地を行脚して布教に努められ、生実城下で原胤栄公夫妻の帰依を受けられたのです。

 

大巌寺を開創された当時、上人は学徳兼備の高僧として世に知られていました。 大巌寺にはその徳を慕う青年僧が集まり、最盛期には40棟以上の学寮(がくりょう/修行僧の学び舎)が建てられました。後に増上寺第九世となり、「道誉流伝法」を制定されるなど、浄土宗史に名をとどめてもいます。道誉上人の隠居寺に臼井の新大巌寺(現長源寺)があります。

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徳川家との関わり

 

原胤栄公は、豊臣秀吉の小田原征伐に際して北条氏に与して戦死されましたが、北条氏に代わって関東の支配者となった徳川家康公は、自家の宗旨が浄土宗であったこともあり、早々に制札を発して大巌寺を保護されました。

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大巖寺の歴代住職のなかには、一宗を代表するような高僧もおられます。第二世・安誉虎角(あんよ こかく)上人は、徳川家康公と深いご縁があり、第三世・雄誉霊厳(ゆうよ れいがん)上人は、江戸の霊巌島(現在の霊巌寺)を開かれたほか、全国に36の寺院を建立されたことで知られています。

江戸時代には、大巖寺は幕府公認の僧侶の学問修行の拠点として「関東十八檀林(だんりん)」の一つに指定され、学問の寺として大いに栄えました。しかし、時代の移り変わりの中で都心部の寺院の勢いが増し、大巖寺の教線は次第に落ち着いていきました。

明治時代以降は、檀林制度の廃止や戦後の農地改革などによって、大巖寺も大きな影響を受けました。それでも、470年を超える法灯は今なお絶えることなく、今日までしっかりと受け継がれています。

現在、境内奥の高台には、開山以来の歴代住職のお墓が静かに並び、大巖寺の長い歴史と信仰の深さを伝えています。

©2025  龍澤山 大巖寺

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