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アジサイ
  • 大巖寺住職 長谷川匡俊

人生は修行の旅 

(2)失敗にくじけず、成功におごらず、我が道を歩みたい

 よく言われることですが、人生に失敗やあやまちはつきものです。時に難局に行き詰まり、挫折を余儀なくされることさえあるはずです。かえってチャレンジ精神旺盛な人ほど立ちはだかる壁に己の未熟さを痛感させられるのではないでしょうか。



 テレビの大河ドラマ「どうする家康」は、まさに次々と襲い来る困難な課題と格闘しながら、失敗や辛酸をなめつつも、天下取りへと成長してゆく姿が描かれています。戦国乱世を生き抜き、平和な国造りを目指し、やがてこれを実現した家康の真価は、おそらくその成功体験よりも、数々の失敗やあやまち、負の遺産から学び得た器の大きさにあると言ってもよいのでしょう。




 スケールはちがいますが、私たちの人生を顧みても同様なことがみられます。話題を子供のころの思い出に移して見ますと、私にも身に覚えがあります。きっと誰しも人には言えない失敗やあやまちがあったと思います。ただそれをどう消化して、その人の成長に転化できたかとなると、そこには、両親や先生、まわりの大人たちのサポートが大切なのだと感じています。



 手痛い失敗が人生の糧になったということでは、夏の甲子園における全国高等校野球選手権大会での話が知られています。接戦のなかで、自分の失策が試合の勝敗を決めたというような場合、その選手の心境は察するに余りあります。もとより、チームの全選手・関係スタッフの衝撃は如何ばかりでしょう。そしてその事実は、失策をした選手の人生観を根底的に決する良薬となっていることが多いのです。「人の痛みを我が痛み」と受け止める心、他者の気持ちを察する心がそれではないでしょうか。




 世の中は「成功者」を礼讃し、またその成功事例に学ぼうとする人も多いはずです。事実、成功はその人の自信の源となるものです。ところが生成AIの進化に象徴されるように、私たちを取り巻く環境変化のスピードは劇的であって、もはや過去の成功体験が通用しなくなっているともいわれます。たとえば、こんなことも報道で耳にします。



 企業の成功体験が開発を遅らせた例として、中国に比べ日本の電気自動車の顕著な遅れが指摘されています。評論家は、エンジンによる日本の自動車事業界の成功体験(世界のトップを走る)が、かえって足を引っぱっていると。

 そう、失敗を糧に、成功にも溺れることなく、我が道を歩もうではありませんか!

 



(3)少年には少年の、青年には青年の、壮・熟・老年にはそれぞれの旅がある。さて、あなたの旅はどうですか

 昔からのことわざに「かわいい子には旅をさせよ」という言葉があります。我が子供時代を振り返るとき、なんとも懐かしさがこみ上げてきます。ここで言う「旅」は、むろん場所的な移動ばかりでなく、日常生活では得られない体験を通して新たな自分を発見する旅を意味するものでしょう。



 その際、子の両親や祖父母のような人生の先輩からの助言や励ましは欠かせません。とくに引っ込み思案であった少年期の私の場合、それまでとはちがう異世界に呼び込むには、それなりの勇気が必要だったのです。その背中を押してくれた母の深い愛情と配慮に今さらながら感謝のほかありません。おかげさまで、多くの出会いに恵まれ、成長へと脱皮できたのでした。



 青年期の旅というと、戦前までは、「若者組」(後の青年団に当たる)による出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を巡る参拝が、人生の「通過儀礼」として行われていました。この大巌寺地域にも三山を巡拝した証としていくつもの石碑が建てられています。羽黒山は「生」を、湯殿山は「死後の再生」を、月山は「死と終焉」を象徴していると言われ、人間の生命サイクルを体現し、死と再生の宗教的・精神的な理解を深める旅です。 


 


青年期には、このように神聖な霊山を登拝することによって、身体的かつ精神的な難行苦行を経験し、己の生き方を深く見つめ直す機会がことのほか重要でした。けっして物見遊山の旅ではありません。参拝の形態はともあれ、このような意義ある伝統文化がどのように受け継がれて今日に至っているものか、考えさせられるものがあります。



 つぎに、高齢者の旅というと、昔も今も巡礼とか遍路が知られています。三十代から四十代のころの私は、房総を中心に各地の巡礼調査に駆け巡っていたものです。最近は世代を超えて寺社の「御朱印」を集める旅が盛んです。このような旅は、元来世俗的な価値に煩わされず、神仏に触れる宗教性・精神性を重視するものでしたから、とくに晩年を迎える高齢者にとっては、掛け替えのない「心の平安」のひと時であってほしいものです。



 半世紀世以上前のことですが、私が訪ねたインドの地では、人生の最期は「遊行期」といって、それまでの閑静な生活(林住期)からも離れ、終焉の場所を求めて一人旅に出ることを理想としたと言います。俗界の価値観を持ち込まないところに、精神文化の豊かさを感じさせられます。

 

 

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